長谷川摂子と絵本作家

【第6回】スズキコージさん|(2)”空気感”をたいせつに

縄文時代の絵

長谷川 私、初めてスズキさんの絵を見た時に、日本の人の絵という感じがしなくて。ルーマニアとかアルメニアとかコーカサスのような雰囲気で。
スズキ ぼくの絵見て、ある人は北欧みたいとか、ある人は南洋、『ゼレファンタンケルダンス』の言葉をつけてくれた別役実さんなんかは、「曼陀羅だねえ」と言う。だからぼくの場合、例えば日本と考えるとね、縄文時代とかね、あっちの方が近いんじゃないかな。
長谷川 そうか、縄文式ねえ。
スズキ だから、天皇のいる日本という枠組みが取れちゃった時代、例えばアイヌだとか、朝鮮とか、台湾とかマレーシアとかシベリアとかがごった煮になっている世界っていうのに近いんじゃないかな、と思うんですよ。自分では無意識のままずうっと絵を描き続けてきたんだけど、自分のルーツとか考えていくと、やっぱりそういう日本人だとか日本的だとかっていうふうに決められないものが、ぼくん中にあるのかなと思うんですよね。
長谷川 コージさんの、そういう、枠組みを超えた境地って、凄い。
 私、縄文式の土器や土偶を見るといつも謎をかけられたような奇妙な気分になるの。あれ、いわゆる日本的な美意識とどうつながってるんだろうと思うと愕然とするような落差があって、未開の混沌に首をつっこんだみたいな戸惑いがあるんだけど。一方でどうしようもない熱いエネルギーを感じるのと半々で、なんか足がすくむような気がしてたの。だけど、コージさんの絵と結びつけると、なんか目からウロコが落ちるような気がする。あののたくりまわるような文様で全体を隙間なくおおっていく感じなんか、なんともいえない粘りと熱気があって……。コージさんの絵って、原日本人の絵なんだ。
スズキ あはは。原土人。
 

音楽が聞こえる絵本

長谷川 コージさんの絵だけでなくて文章もとてもいいの。例えば「はずかしがりやのおつきさん」の折り込みの文章。“友だちがやってきて山の上の広場で皆集まって焚火をしているらしい。油絵をそのままにして、僕は長ぐつをはいて犬のイワンといっしょに出かけると、あたりは深い群青色のモヤがかかって……(略)……ますますギターの音色は冴えわたり、ハモニカの音が混じって、遠くでは池袋線の電車の音に混じって、インドの鈴のリーンという音がする。……”
スズキ そんな文章書いたっけ、ぼく。
長谷川 この文章読んでるとね、池袋線の電車の音が聞こえる日常的な次元にいながら、自分の中の濾過装置みたいなもので、すいっとそこから持ち上げられて、花が咲いている所へいつのまにか行ってしまう……不思議な地続きの感じがあるのね。
スズキ ぼくね、自分の文章を好きなの。もう、うっとりしちゃうよ(笑)、いや、ほんとにそうよ。
長谷川 それに文章の調子がすごく音楽的っていうか、声に出して読むと独得のリズムがあるの。……私は、『すいしょうだま』の文章も好きで、あれ、昔の阿呆陀羅経なんて、あんな調子じゃなかったのかしら。「おそれおおくも、かすみたなびくむかしのむかし」なんて始まって一気にだーっと歌うようによむと、とっても快感があるの、文も絵もどこか音楽を感じるのよね。コージさんご自身もギターや唄の名手だって聞いてますけど……。
スズキ 音楽でも歌でも、聴くだけの人もいるでしょ。ぼくの場合は聴いて出すというか(笑)やっぱりもらったら返したいとかね、なんかあるでしょ。だから耳はいいんですよね。
長谷川 絵を描く時には音楽を聴きながら描いたり?
スズキ いや、それはもうさまざまです。全然無音のね、無音の音っていうのもあるわけで。昔、大雪山のふもとにひと冬いた時も、雪の降る音っていうかね、「しんしん」とかいろいろあるけど、無音。無音というのも音なんだなあ。周りはね、ほんとに「ナルニア国ものがたり」(岩波書店刊)みたいな世界で。だから、エレキでガンガンやる音と、そういう無音っていうのは、とことんいっちゃうともう、張っ付いちゃってるみたいなもんがある。
たしかに音っていうのはある意味で恐ろしいよねえ。なんていうのかな、一種、花火のバーンと上がったみたいなもんで、一瞬のうちにというか、一瞬もないかもしれないのね。出すと同時に消えていくから、すごいなと思うのね。母方のじいさんがね、「屁は鳴り物の司なり。琴、三味線に匂いなし」と言った話を母親から聞いたんだけど、屁とか音とか、そういう実体のない物っていうかさ、つかまえられないっていうか、そういう空気感、それが人間にとってひじょうに必要だって感じるんです。


 

心の扉を開けて

長谷川 言葉だって音になるのよね。この前田舎に帰ったらね、家から三十メートルほど離れたところにある御堂にみんなが集まって、青年団の野球大会の後の、わーっと食べる会、直会っていうのをやってたの。そうすると、どっと笑う声や、いろんな声が聴こえてくる。集団で何言ってるか分かんないんだけども、笑い方とか、声の響きとかがね、なんともいえず、もう、ああ出雲の……っていう感じがするの。この土地の声っていうか。
スズキ そうそう、前にスペインなんかリュックしょってまわった時、言葉がわかんないから一生懸命聴くでしょ。そうすると今まで閉まったり開けたりしなかったところが、ぱっと開かれて勘が働くのね。心の戸が開くみたいな体験はあったけどね。もし、みんな部族が違ってたら、「ハンジャ、ハレーデストカ、ソンジュッタラバ、トーン」(笑)なんて言い合ってて、なんだかわからないけど、みんなもう心の扉が開いて盛り上がるみたいなのがある。そういうのはやっぱりすてきなことだと思うのね。意味だけで通りすぎるつまんない言葉よりも。
長谷川 人と人とが出会って通い合う幸せって、ほんとのところそういうことを抜きにしては考えられないのよね。
スズキ だからね、ぼくはどもりの友だちもけっこう多いんだけど、今の世の中って、どもりを直そうとかさ。でもどもって話してた方がかえってわかりやすかったりする。なんかこう、表現するのが下手くそだっていうことを否定しちゃう世の中っていうのは、ほんとにぼくは、それを否定するね。その人がとにかく表現してて、それはそれで、分かるものが、ある。
長谷川 それはその人が長年かかって自分の中で積み上げて来たものだから、なんか標準があってそれに合わせるとかそういう問題じゃないんですよね。
表現って、詩でも絵でもそうだけども、体で覚えてることっていうのが一番ね、何か生みだす時には。
スズキ 四大元素ってあるでしょ、火、水、土、風。ぼくの子どものころの遊びとかでそれに関するものが体験になってるようなところがありますね。例えばハナクソ遊びなんかにもそうだけど、小さい時やらされた風呂焚きなんかも。この前、陶器作りに行ってた時、一昼夜窯に火を入れてて、東京に出てきたら、どの人も炎に包まれてんのね、ぽおっと……。
 ぼく、やっぱりねえ、絵本っていうの描く立場でね、これからどうしていったらいいかというとね、きっと自分で信じることだろうね、土とか火とかね、もっと……。それでこう、念じて描く。念じて描く、と。
 

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2017.04.06

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