あのねエッセイ

今月の新刊エッセイ特別編|森田真生さん『アリになった数学者』

毎月1冊書籍の新刊をとりあげ、著者エッセイをお届けしている「あのねエッセイ」。今月は特別に、月刊誌の著者エッセイをお届けいたします! 「たくさんのふしぎ」9月号の著者・森田真生さんは、在野で数学の世界を探究する「独立研究者」。数字を体で感じる作品に寄せて下さった、「1」がテーマのエッセイです。

『アリになった数学者』刊行によせて

森田真生


 ぼくにはいま1才5ヶ月の息子がいます。あちこち歩き回れるようになり、少しずつ言葉もしゃべるようになってきましたが、まだ自分の名前を名乗ることはできません。
 「わたしの名前は◯◯」です――そう答えることができるということは、自分が「一人」だとわかるということです。
 人は生まれたときから「一人」なわけではありません。ぼくの息子は、おっぱいを吸っているとき、まだお母さんの一部です。太陽を浴びているときは、太陽の一部です。公園で風を受けているときは、涼しい風の一部分です。
 人はあるとき、自分が母親でもなく、太陽でもなく、風でもないということに気づきます。そして、自分が「一人」だということを発見します。自分は一人で生きていて、いつか一人で死んでいくのだということを考えるようになるのです。ここから「人生」というものがはじまります。
 幼子のように、自分が周囲と「一つ」だと感じているときには「1」という概念はわからないのです。自分と周囲を「二つ」に切り離すことができるようになったとき、はじめて「二つ」のうちの「一つ」として、「1」がわかるようになるのです。


 数年前、「1」をテーマにした絵本をつくろうというお話をいただいたとき、これは大変な仕事になるぞと思いました。「1」がわかるということは、人が人であることの根っこにかかわる問題だからです。よほど覚悟を決める必要があると感じました。
 「1」について、絵本という方法で何を表現できるだろうか。しばらく時間をいただき、考えました。するとある日、変な夢を見ました。それは、アリと水滴の夢でした。
 水滴を抱えたアリが、突然「1」をわかってしまうのです。アリは何とか自分の発見を仲間に伝えようとしますが、他のアリたちに「水だよ」とか「雨だよ」とか「海だよ」と笑われてしまい、相手にされません。水滴は、たしかに川に落とすと川になる。池に落とすと池になる。でも、前脚で抱えてみると、やはりどうしても「1」なのです。自分の発見をまわりに伝えたいけど伝わらない。そんなもどかしさを抱えたアリと水滴の夢でした。
 「1」は、人間にとって当たり前です。当たり前すぎて、うまく定義することすらできないのです。人が人である限り「1」はわかってしまう。だから、説明できない、というよりも、説明する必要すらないのです。
 「1」がわかるということの不思議さを思い出すためには、まず、「1」がない風景を想像する必要があります。「1」がない風景を想像すること――それは、ある意味では、人間でなくなるということです。ぼくはきっと、無意識にそういうことを考えていたのだと思います。そして、たどり着いたのが、水滴とアリというモチーフでした。
 絵本をつくるプロセスは、ワクワクとドキドキの連続で、特にイラストを初めて見たときには、自分のテキストから生まれるとは文字通り「夢にも思わなかった」ような素晴らしい世界に鳥肌が立ちました。脇阪克二さんの素敵なイラストを一目見るためだけにでも、ぜひ一人でも多くの方にこの絵本を手にとってみてほしいと思っています。
 数がただの便利な道具ではなく、人が人として生きているときに、日々生み出し続ける「風景」の根っこにあるものなのだということを、ぜひ多くの人たちに知ってほしいと思います。
 未来をつくる子どもたちが、この絵本を通して数の未来に思いを馳せる――そんな光景を想像するだけで、ぼくは嬉しくなってしまうのです。

 



森田真生(もりた・まさお)
1985年、東京に生まれる。2歳から10歳までアメリカのシカゴで育つ。小さい頃から数が好きで、怪我をしても、たし算の問題を出されるとすぐ泣きやんだ。中学校、高校と、バスケットボールに夢中になった。大学では文系の学部に入学し、さらにロボット工学を学ぶ。そのなかで、友人や先輩から数学の面白さを教えられ、幼いころに抱いた数への関心がよみがえる。数学科への転向を決意し、東京大学理学部数学科で学び、卒業。現在は京都に拠点を構え、在野で数学の世界を探究する。全国各地で「数学の演奏会」を開催中。数学を、音楽のようにたくさんの人の心に届くように「演奏」したいと願っている。著書は『数学する身体』(新潮社)。同作で第15回小林秀雄賞受賞。子どもにむけた出版は本作がはじめて。日経新聞木曜夕刊「プロムナード」にて連載も執筆中。
トークイベントを、8/5(東京・文京区)と8/11(岐阜市)に開催予定(詳細は こちら)。
ホームページ「ChoreographLife

2017.08.03

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