一郎くんに出会う旅ー『一郎くんの写真 日章旗の持ち主をさがして』刊行によせて

【第3回】一郎くんのお嫁さん―それぞれの戦後

東京中日新聞で連載された『さまよう日章旗』(2014年8月)から生まれた、ノンフィクション絵本『一郎くんの写真』(たくさんのふしぎ2019年9月号)。一郎くんの足跡をたどり、担当編集者が現在の静岡市を歩いたエッセイを全3回でお届けする連載の最終回です。

 絵本の16ページに登場する山口浩一さんは、戦時中は10代前半の少年で、一郎くん宅の隣に住んでいました。彼の証言で、一郎くんの人となりや、そもそも名前が「中田一郎」であることも判明した、キーマンとなった人です。
 山口家の人々は、大家の息子でもある一郎くんのため、ちゑさんに頼まれて日章旗に寄せ書きします。お父さんの山口磐次さんの名前は日の丸の右下に、浩一さんの名前は、左がわに真横になって書かれています。

 戦禍は山口家にも襲いかかりました。一郎くんの出征後、2人目の妹を出産したお母さんの英(てる)さんは、直後に病死。静岡空襲では、山口さんは亡き母の位牌や着物を持ち出そうとしますが、磐次さんが怒鳴って引き戻し、命からがら、泣きながら逃げたそうです。山口家の物は何もかも焼けてしまい、一家は市内の別の場所に建てたバラック小屋で終戦を迎え、戦後を生きました。

 記者の木原育子さんから日章旗の写真を見せられた山口さんは、自分の4つとなりに書かれたお母さん「山口英」の文字を、「なでてやりたい」と言います。英さんの物は何も残されておらず、山口さんは70年ぶりに、この日章旗で、お母さんの書く文字に再会しました。山口さんにとっても、大切な日章旗となったのです。
 戦争で物が焼けてしまうということは、人が生きていた証(あかし)がなくなってしまうことでもあるのですね。

 山口さんの証言によれば、一郎くんは出征前に祝言をあげていました。戦時のことでご馳走が並ぶわけでもない質素な会でしたが、「なるべく子どもたちを呼んでほしい」という一郎くんの希望で、山口さんや妹の文子さんも、中田家の2階大広間に招かれます。
 華やかな場だろうとわくわくして向かった山口さんたちでしたが、祝言は誰も笑い声を上げない静かな会となり、しょんぼりして帰ってきたそうです。
 一郎くんのお嫁さんは、近所に住んでいたきれいな人で、祝言の間、黙って一郎くんのそばを離れなかったといいます。
 彼女が誰で、その後どうなり、戦後をどう生きたのか、木原さんたち取材班の調査でも、「たくさんのふしぎ」編集部の取材でも、わかりませんでした。

 そもそも、残された一郎くんの戸籍には、婚姻の記載がありません。
 それは、新婦の経歴に跡を残さない配慮の当時の慣行だったのかもしれません。しかしそこには、『やさしかった』という一郎くんの思いもあったのではないかと、私は推測します。



 


「一郎くんさえ帰ってきたら」
 残された人たちに、共通にそんな願いがあったことを、今回の取材で強く感じました。
 一郎くんは、「一郎さん」でも「一郎」と呼び捨てでもなく、大人からも子どもからも親しみをこめて「一郎くん」と呼ばれていました。
 そんな一郎くんが帰ってこられたならば、二人のお母さんを大切にし、お姉さんのちゑさんとはお互いの子ども同士を遊ばせたりして、北番町で楽しくおだやかに暮らしていったことでしょう。

「戦争さえなければ」
 70年以上前、日本じゅうで、○○くんとその周囲の人々が感じたであろうその思い。その記憶が今、戦争を知る人々が亡くなっていくのとともに、それぞれの町から消え去ろうとしています。

2019.08.07

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