こどものとも800号記念・絵本誕生のひみつ

だるまちゃんとてんぐちゃんが生まれた日/加古里子さんインタビュー

月刊絵本「こどものとも」は、2022年11月号で800号を迎えます。これを記念して、今年度、本誌の折り込み付録では、過去の記事から、数々のロングセラー絵本の「誕生のひみつ」について、作者の方たちが語ったインタビュー記事を再録してお届けしています。

ふくふく本棚でも、毎月、「こどものとも800号記念・絵本誕生のひみつ」と題して、折り込み付録掲載のインタビュー記事を公開してまいります。第3回は、「だるまちゃんとてんぐちゃんが生まれた日」。加古里子さんのインタビューを「こどものとも年中向き」2000年6月号折り込み付録から再録してお届けいたします。

「海から風が吹く時は、そこらじゅう潮でベタベタしてしまって、そんな日は、網戸をなめてみると、これが、しょっぱいんですね」

――インタビューの前に、「海が近いお宅でいいですね」とご挨拶したところ、そんな言葉で返してくださった加古さんです。そもそもなぜ、主人公が“だるま”になったのでしょう?

「昭和24年頃から、僕は、会社に勤めてもらっていた給料のほとんど半分を使って、外国の子ども向けの雑誌をとっていたんです。そういう雑誌には、戦争の間、作品を発表できなかった作家たちの、書きためてあったものが、うわぁーっと載っていて、みずみずしい作品がたくさんありました。そんな中に『マトリョーシカちゃん』(注:ロシアの郷土玩具の、入れ子になっている人形が主人公)のお話もあったんですね。それを見てびっくりしました。子どもを出さずに子どもの本になっていて、おもちゃでありながら、出てくるキャラクターそれぞれに性格があって、ストーリーになっている。うまい。うまいというより小憎らしい(笑)。それで僕は、自分の国のおもちゃでも、おもしろいものを作ろうとして、いろいろ考えたんです。で、ぱっとめだつのがいいなあと思って、だるまにしました。赤いですしね。相方も、かっぱにしようか、きつねにしようか、と考えたあげく、てんぐにしました。ストーリーは、最初のうちわと最後の鼻は、すぐに浮かんだんですが、その途中ができなくて、七転八倒しました。ただ『ほしい、ほしい』っていうおねだりの本だと、編集部に怒られてしまうし(笑)。それで、だるまちゃんが自分で解決するために、お父さんには悪いけど、とんちんかんで空振りに終わってばかり、ということになりました」

――でも、おおきなだるまどんは、とてもいいお父さんですよね。

「僕自身の父が、誉めようにも誉められない人だったんです。僕は、“不肖の父”と言ってるんですが。子煩悩でありすぎたんですね。子どもの僕の願いとは、ちがうことばかりするんです。僕は小学生の時、模型飛行機が大好きだったんですが、そうすると、値段の高い、三角胴の飛行機を買ってくれるんです。安いのは、角材の一本胴なんですが、そっちの方がよく飛ぶんですね。買ってもらった三角胴は、案の定飛ばない(笑)。

その頃は、学校の近くの文房具屋が、模型飛行機の塾みたいになっていて、そこで竹ひごなんかの材料を売りながら、おかみさんが子どもたちに模型飛行機の作り方を教えてくれていたんです。ぼくがそこに十銭にぎりしめて行くと、それではお金が足りないんですが、おかみさんが、他の子の材料のあまった切れ端をくれてね。それで作ったりしてました。そうやって、自分でものを作る方が、楽しかったんですね。下手でもやれたから。

そんなわけで、父には欲しい物を気取られないようにしてました。縁日の夜店でも、おもちゃをのぞきこんでいると『買ってやろうか』って言われてしまうのでね、欲しい物を横目でちらちら見て形を覚えては、まねして作っていました。失敗して手を切ったりしたことも、いい経験になりました。


家族で北陸から東京に出てきて、長屋住まいをしていたんですが、そこの長屋のあんちゃんを、今でもよく思い出すんです。6歳ほど上の人だったんですが、よく手品を見せてくれて。紙をちょんちょんちょんとやって広げてみると、『ほら、なくなっちゃった』とかね。とてもうまい。特別な道具なんか使わなくて、そこらへんの紙とか石とかでね。

あんちゃんがまた、絵が上手で。武者修行のおさむらいのひとコマ漫画だったりするんですが、どこかまがぬけてて、刀がめったやたら長かったり、短筒を撃ってるんだけど玉がポトンと落ちてたり。いろんなところにユーモアがありました。で、クラスの友だち4人で、あんちゃんに弟子入りしたんです。僕が最初だったんですが(笑)。何も教えてはくれないし、描いた絵もなかなか見せてくれないんですが、ちらっと見せてくれた時に、『これ、貸して貸して』って、みんなで見てひき写すんです。濃く描きたいので鉛筆をなめたり、なめると鉛毒でよくないってんで、お皿に水を入れて、水をつけては描いてました。

そのあんちゃんが急にいなくなってしまったんですが、ある日、僕が銭湯に行くと、その前の床屋さんに、あんちゃんが丁稚奉公していて。奥の方でおやじさんに怒られて、小突かれてるんです。見たくなかった。それからは、わざわざ遠くの別の銭湯に行きました。

そのあんちゃんが、僕に絵を教えてくれた最初の先生なんです。それで絵が好きになったんですが、父には怒られるんですね。絵描きになっても、とても生活できない、と。見つかると怒られるので、隠れて描いてました。長屋を出て、家で風呂に入るようになっていたので、風呂を焚きながら、焚き付けの雑誌や新聞にこちょこちょ描いては燃やす。証拠隠滅ですよ(笑)。

大人になって手塚治虫と話したら、向こうは親と宝塚を見に行ったりしてるんですね。『お互い、ずいぶん違う境遇だなあ』って。こっちは芝居どころでない。絵も怒られるんですから」

――加古さんの絵は、とても子どもたちに愛される絵になりました。

「何がおもしろいか、ということを子どもたちが教えてくれたんです。学生の頃から、川崎で紙芝居を子どもたちに見せていて。『これをおもしろがらない子どもなんていない』と張り切って見せにいっても、目の前で子どもたちが、どっか行っちゃうんです。当時の川崎では、ザリガニ釣ったり、トンボをとったり、おもしろいことがたくさんありましたから。ザリガニよりもトンボよりもワクワクするもの、子どもたちにピタッとするものを作ろうと、懸命になりました。『子どもとぐらいは遊べるだろう』と、たかをくくってたんですが、『相手はすごいぞ』と、思い直しました。ぼくも、てんぐになっていたんですね(笑)」

――好奇心のかたまりで、自分でおもちゃを作ることが大好きだった少年が、絵本の中で、もう一度、思う存分手作りを楽しんだ。それが“だるまちゃん”の姿だったのでしょう。

*次回は「いそがしいよるが生まれた日/さとうわきこさんインタビュー」。
 6月10日頃公開予定です。どうぞお楽しみに。

2022.05.10

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