長谷川摂子と絵本作家

【第7回】岸田衿子さん|(2)じっとしているより動いていたい

外遊びが好き

長谷川 岸田さんは、お小さい時は東京にいらしたんですか。
岸田 今の武蔵野市すれすれです。
長谷川 じゃ、まだ畑とかがかなり……。
岸田 そうです。近所は竹薮だの雑木林だの畑だの肥やしっぽい匂いがして、家があまりないというのは覚えてる。
長谷川 どんなお子さんでしたか。
岸田 子どもの時のことというのは、自分より他の人のほうが知ってるわけでしょう。私はどういうお子さんだったかわからない。あんまり記憶がよくもないし。妹がね、覚えてる話を聞いたりはするけど。まわりに麦畑とかあったからね。家出をしたんだって、二人で。“姉の手をしっかり握って”麦畑をどんどん、どんどん、子ども心にはずいぶん遠くまで行ったと思ったんだけど、たいしたことなかったらしいと言うのね。その時は私がすごく頼もしかったらしいんだけど、その記憶が私にはない。家の中にじっとしてはいない子だったとは言われます。
長谷川 どちらかというと、外遊びが好きな活発なお子さん……。
岸田 そうです。だから外のほうはそうとう自信があるというかね、何やっても。縄跳びやっても木登りやっても。
でも昔のことは、妹のほうがよく覚えてる。俳優の芥川比呂志さんが家にみえて、芥川竜之介の息子ってどんな人だろうって、こっそりカーテンの後ろにかくれて見たっていうんだけど、私のほうは覚えてないの。そう言われてみると、カーテンのすき間から、来た人を見てたという気はするのね、たびたび。遊んだ場所の風景とか、どこをどう行くとどこへ出るとか、地理的な記憶はあるんだけど。視覚型なんでしょうね。
長谷川 幼い頃の記憶のタイプっておもしろいですね。心理的な屈折のある子は、いやだったとかうれしかったとか覚えているのかしら。そんなのがすっぽり抜けて、場所や風景だけ覚えているという岸田さんのタイプは、きっと、遊びに遊んで、毎日充実しきっていたのかもしれないですね。

両親のこと

長谷川 夏はお小さい頃から信州の六里ケ原あたりで過ごされたんですか。
岸田 ええ。信越線から今だとバスで1時間ぐらいのところに大学村という夏の村があって。
長谷川 お父さまの岸田国士さんは、その夏の村で、木の上に小屋を作ってくださったとか。
岸田 ええ、櫓を作ってくれて。みんな登りたがると、ジャンケンして2、3人ずつ登った。木の上から通る人を見てたとかは覚えてます。よく、私が上から物を投げたとか、あとになって言われるけど、(笑)そうかしらねえ。私は覚えてないのね。
長谷川 わあ、長くつ下のピッピみたい。お父さまは縄のベッドを作られたり、リンゴの木を植えたり。
岸田 父は、東京での芝居の指導や、頼まれて一時やっていた大政翼賛会の文化部長の仕事などでくたびれていたので、ああいうとこで、緬羊飼ったりね、山羊飼ったり、そんなことしていたんだと思うんです。農業というと大げさなんですけども、もともとそういうことをやりたいというのも強かったんですね。
長谷川 お母さまをはじめ、岸田さんご一家は、当時としてもかなり自由な雰囲気の家庭だったんではないですか。
岸田 そうですね。あそこは書斎人が多くて、ドイツ哲学っぽい雰囲気で、地元の人と話す人もあまりいなかったみたいね。地元の人や牧場やってる人たちが、一緒に釣りしたり話したりしたのは岸田さんだけだったよ、なんて言うんですよ。私たちが子どもの頃もけっこう厳しい人たちが多かった。うちなんて評判悪くて、野上(弥生子)さんなんかに、岸田さんとこの姉妹は馬に乗っちゃって、とか言われたこともある。うるさいって言っても、一人一人面白いとこもあるし、書斎人なんていう人たちがいなきゃ、わかんなかったこともいっぱいあるんだから、いい面もあるんだけどね。


長谷川 ご両親の教育方針とかは……。
岸田 ないと思いますね。父が日本へ帰って結核やってて何年か療養したあとで生まれた子ですから、40の子だけど。母も、昔で言えば婚期は過ぎているという年ですから。28、9。年とって生まれた子でしょう。怒られた記憶がない。1回だけ覚えてるのは、2階の窓から屋根へ出て歩いてたら、庭で父と母が見上げてにこにこ笑ってるように見えたのね。2階に戻ったら、そうとう長い時間お説教された。あそこで落ちるといけないと思って、その場では怒らなかったのね。
長谷川 お母さまは「この世のものとは思われない」ほどきれいな方だったそうですが、マザーグースを訳されたりもなさったそうですね。
岸田 ええ。母は結婚前は昔の文藝春秋で小学生全集の外国篇の手伝いをしてた。母のことと言えば、私たち、母を先頭に、毎年木苺やブルベリー、グズベリーを牛車に乗って取りに行っては、ジャムなんかを作るのが年中行事になってたわね。母は肺病になって、1年ばかり寝て。なかなか会えなくなっていたんですね。死ぬとは思ってなかったけど。母が死んだのは私が13歳の時でしたが、学校へ行くと、先生が同情的になっちゃうのね。先生がいつも見てるような気がした。あんまり好きじゃない先生で、特別扱いみたいな感じでいやだったけど。でも学校へ行ってなんだかんだしているうちに、翌年ぐらいには北信州へあずけられて。都会の主婦より農家の主婦のほうが、しっかりしているからいいというのが父の考えだったの。土蔵の2階が部屋になってて、そこの家の子どもたちと一緒にお弁当作ってもらって学校へ行ってた。母が死んじゃってもそんなことして、だんだん片親にもなれてきて。それから1年もたたないうちに、今度は父と一緒に信州の近くの鼎村というところへ移ったの。そこで父は畑作って、地元の人たちと一緒に小麦の供出までした。でも東京にも仕事で往き来するうちに、父は死んじゃったのね。
長谷川 戦争をも含めて、多事多難な少女期といってもいいような気がするんですが、岸田さんのお話を聞いていると、どこかすかっと明るい感じがしますね。やっぱり少女になっても活発で、じっとはしていないタイプだったんでしょうか。
岸田 そう、じっと聴いたり見たりだけというより、自分でするほうが好きだったのね。ピアノなんかでも聴いてるよりも、自分で弾くほうが好きだったんじゃないかと思う。野球なんかも見てるだけで嬉しい人、いっぱいいるけど、私はやりたかった。男の子たちが特別に入れてくれてね。
長谷川 自分の体でちゃんと味わってみるというほうだったんですね。
岸田 今でもじっとしているより、動きたいほうなんです。

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2017.04.07

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