あのねエッセイ

今月の新刊エッセイ|伊藤比呂美さん『なっちゃんのなつ』

今回ご紹介するのは、夏の新刊『なっちゃんのなつ』。生命のざわめきと死の気配が入り交じる、独特で濃密な日本の夏を、静かなまなざしで美しく描いた絵本です。エッセイでは、作者の伊藤比呂美さんが、カリフォルニアと日本を行き来する夏の思い出とともに、絵本の魅力を語ってくださいました。

せみのぬけがら

伊藤比呂美


『なっちゃんのなつ』が、「かがくのとも」の一冊として出たのが2003年、わたしがアメリカに移住して6、7年経った頃です。
住んだのは、南カリフォルニアの、空の青い、雨の少ない、自然は殺伐としてますが、それなりにイキイキしているところ。そこから、夏になると必ず、子どもを連れて、熊本に帰りました。6月半ばの梅雨のまっ最中に来て、梅雨が開け、盛夏を迎え、お盆の頃までいて、カリフォルニアに帰りました。こうやって、毎年、日本の夏に出会い直す経験がなかったら、この絵本は生まれなかったと思います。
アメリカ生まれの末っ子は、トメといいますが、日本に来ると、まるでイディオムのように「せみのぬけがら」という長いことばを覚えて、すらすらと発音しました。その日本語はとてもたどたどしかったので、このことばだけがとびぬけて流暢で、生々しく聞こえたものです。
それからトメは「せみがないてる」を覚えました。そして「せみのしがい」を覚えた頃に、わたしたちはカリフォルニアに帰りました。
あるとき、帰る支度をしていたわたしは、トメがいつも持ち歩いていた小さなかばんを何の気なしに開けて、悲鳴をあげて放り出しました。なんとそこには「せみのぬけがら」がぎっしりつまっていました。「かなぶんのしがい」も二つ三つまじっていました。
蟬の抜け殻、そこらで見つけたやつなら平気でつまめるんですが、ああもたくさんかばんの中にあると、ただ気味が悪いばかり。でもトメが夏じゅうかけて熱心に拾い集めたものですから、むげにもできません。アメリカに持ち込めるかどうかもわからなかったので、全部はあきらめ、一つか二つ紙につつんで持って帰ったんですけど、家に帰り着いて開けてみたら、こなごなになっちゃっていたのでした。
そんな夏の思い出を、ふと思い出しました。この絵本に出てくる植物も、動物も、わたしにとっては夏の現実そのものでした。
片山健さんの絵は、すばらしかった。とくに、紙面いっぱいにひろがったヘクソカズラ。ヘクソカズラは、子どもの頃から大好きな夏の花ですが、こんなにいきいきとかわいらしいヘクソカズラは、他で見たことがありません。
そして外来の植物たち、セイバンモロコシ、セイタカアワダチソウ、オオアレチノギク、ヒメムカシヨモギの風にゆれる生きざまは、現実の河原でわたしが触れているそのままです。
生きてる生きてるとひとつひとつが叫び出しているような絵でした。

わたしは実は、植物は好きなのに、虫には興味がない・・・・。ハンミョウは、たまたま名前を知っている数少ない虫でした。片山さんはそのあたりを察して、虫をあちこちに描き込んでくださいました。それから鳥や、カエルや、魚も、メメクラゲ(*1 )も、描き込んでくださいました。
この生き物たちの出現で、夏のありようが、ずんと奥深くなりました。そしてその向こうに、〈生きる〉と背中合わせの〈死ぬ〉が、これまたいきいきと浮かび上がってきたんです。そして子どもは、死なんて知らぬげに、ただ遊ぶ・・・・。
蟬の死骸のそばで、振り返ってこっちを見ている動物は、たぶん、若い夏毛のタヌキと思いたい。犬にも見えますけど、夏毛のタヌキはみすぼらしい犬みたいなんですよ。
これが、2012年に片山さんとわたしが作ることになるもう一冊の絵本、これもなっちゃんが主役の、『たぬき』(*2 )というおはなしにつながっていきました。


*1:つげ義春さんの漫画「ねじ式」に登場。
*2:「ちいさなかがくのとも」2012年9月号。なっちゃんとたぬきの出会いを描いた作品。



伊藤比呂美(いとう・ひろみ)
東京都生まれ。詩人。1978年、第一詩集『草木の空』でデビュー。同年に第16回現代詩手帖賞を受賞。詩作のほか、小説・エッセイなど多方面で活躍している。2007年、『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』(講談社)で萩原朔太郎賞と紫式部文学賞を受賞。2015年、早稲田大学坪内逍遥大賞を受賞。著書に『読み解き「般若心経」』(朝日新聞出版)『女の一生』(岩波書店)『今日』(福音館書店)など多数。

2019.08.07

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