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パラリンピックを生んだ医師の奮闘を描く 『パラリンピックは世界をかえる ルートヴィヒ・グットマンの物語』

パラリンピックを生んだ医師の奮闘を描く
『パラリンピックは世界をかえる ルートヴィヒ・グットマンの物語』

世界を変えるきっかけは、時にたった一人の強い信念や情熱、愛情だったりします。

今では世界中の多くの人々を感動させる、国際的な障がい者スポーツの競技大会「パラリンピック」。このパラリンピックの始まりは、イギリス郊外のとある病院で開催された、わずか1種目、参加者が20人にも満たない小さな手作りの競技会でした。



第二次世界大戦当時、脊髄に傷を負い、下半身まひとなった兵士たちは「治療法はない」とされ、その多くが命を落としました。
ドイツ出身のユダヤ系神経外科医のルートヴィヒ・グットマンは、ヒトラーによるユダヤ人迫害から逃れ、イギリスに亡命します。そこで医師として、当時は「不治の病」とされた脊髄損傷の治療に専念します。これにより致死率を大幅に下げ、後の医学界に大きく貢献したルートヴィヒですが、彼が目指したのは「ただ死を待つだけだった患者に“目的のある生き方”という選択肢を与え、社会復帰をうながす。」ことでした。

 


ある日の昼休み、ルートヴィヒは患者たちが車いすを乗りまわし、杖を反対に持ちパックをゴールに飛ばしている姿を目にします。それは馬のかわりに車いすを乗りこなすポロだったのです。これにより手に入れた新たなアイディアから、リハビリ計画に「スポーツを楽しむ」ことが追加されます。その後、リハビリにスポーツを取り入れたルートヴィヒが、1948年に開催した「わずか1種目、参加者が20人にも満たない小さな手作りの競技会」である「ストーク・マンデヴィル競技大会」は、ルートヴィヒの努力と愛情により、次第に競技数や参加する選手も増え、社会に大きな影響を与えるパラリンピックに成長しました。スポーツによって情熱を取り戻した人々の中には、後に教師や弁護士となり活躍する方もいたそうです。

巻末には、車いすテニス日本代表の国枝慎吾選手をはじめ、実在のパラリンピック選手たちの物語も添えられています。
第1回の「ストーク・マンデヴィル競技大会」から70年以上たった現在。ルートヴィヒの生涯を通して、多くの方がパラリンピックに関心を持っていただけると嬉しいです。

担当K・二児の父。子どもの頃の夢は「体育の先生」でした。

2021.08.24

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