あのねエッセイ

今月の新刊エッセイ|中島京子さん『旅の絵本Ⅹ オランダ編』

1977年に刊行された安野光雅さんの『旅の絵本』。
その後、2018年に『旅の絵本Ⅸ スイス編』が出されるまで、40年以上にわたって描き続けられた人気シリーズです。安野さんは、2020年12月に逝去されましたが、実はもう1作「旅の絵本」シリーズを遺されていました。生前、安野さんが原画を遺してくださっていた「オランダ編」です。
このたび『旅の絵本Ⅹ オランダ編』として刊行するにあたって、シリーズのファンで、生前、雑誌の企画で対談されたこともある作家の中島京子さんに、エッセイを寄せていただきました。

安野さんの贈り物

中島京子


お目にかかったのは、3年前、安野さんが『旅の絵本 Ⅸ』を出された後だったと記憶している。その1、2年前には、お加減がよくないようなことも漏れ聞いていたので心配したが、『Ⅸ』出版記念として企画された対談の会場となった安野さん行きつけの一軒家風喫茶店に現れたご本人は、たいそうお元気で、「『旅の絵本』はね、10巻まで出します。それで最後。10まではもう、出すことにしているの」とおっしゃったのだった。
けれども安野さんは2020年のクリスマスイブに急逝してしまわれて、てっきり10巻目は幻となったのだと思いこんでいた。それが、そうじゃなかった!
スイス編と銘打たれた『Ⅸ』の最後には、「旅人は借りていた馬をかえし、スイスと別れていくところです。ドイツかそれともオーストリアへいくのでしょう。」とある。でも、今回、わたしたちの前に登場した『Ⅹ』はオランダ編だ。どうやらドイツを通過して、オランダに行ったようだ。ゴッホ、フェルメール、レンブラント、エッシャー、モンドリアンなどなどの画家を輩出したオランダは、安野さんのお気に入りの場所だったのだろう。


本書の解説では、安野さんが、「ANNO」というアルファベットと年号を刻んだ瓦に出会ったのが、アムステルダムの運河だったことが明かされている。たしかに、それをシリーズで目にしたと思い、記念すべき第1巻を引っ張り出してみると、果たして大きな門に「ANNO1976」とある。それは、『旅の絵本』が描かれた年なのだ。40年以上にも亘って『旅の絵本』は描き継がれ、わたしたちを楽しませてくれているのだと、あらためて思い出してふわっと胸が温かくなる。
『旅の絵本』はもともと、シリーズとして構想されたものではなかったそうだ。でも、一冊が世の中に出てみると、いろんな国から「ぜひ、次はうちで描いて」というリクエストが届いたために、シリーズ化したというエピソードが残っているらしい。そして、9冊並べてみて、たしかにオランダ編は、ない。ないけれども、のちに「中部ヨーロッパ編」と名づけられたこの第1巻に、アムステルダムで見た「ANNO」が記されるのは(瓦の乗る門じたいはドイツのもののようだが)、興味深い。きれいに円環が閉じていくような美しさがある。


このシリーズの英語のタイトルは「ANNO’S JOURNEY」という。『旅の絵本』は時の旅人の絵本でもあるのだなあと思った。第10巻のオランダ編も、「旅人はここで馬をかえして、またよその国へ行くのです。」と終わっている。
安野さんがよその国へ行ってしまってから1年後に、書店に並ぶこの最終巻は、いつだって絵本の中に素敵なサプライズやたくらみを仕掛けていた安野さんの、わたしたちへの最後の贈り物だと思えてならない。



中島京子 (なかじま・きょうこ)
1964年東京都生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒。出版社勤務を経て渡米。帰国後の2003年『FUTON』(講談社)で小説家デビュー。2010年『小さいおうち』(文藝春秋)で直木賞受賞。著書に『妻が椎茸だったころ』(講談社)、『かたづの!』(集英社)、『長いお別れ』(文藝春秋)などがある。最新刊は『やさしい猫』(中央公論新社)。

2022.01.04

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