あのねエッセイ

今月の新刊エッセイ|乾栄里子『わにおの わのじは どうかくの?』

自分の名前が書けたときのうれしさを覚えていますか? 3月の新刊『わにおの わのじは どうかくの?』は、自分の名前をひらがなで書けるようになった“さるのすけ”と、さるのすけに、自分の名前を書いてほしいとお願いをする“わにお”のお話です。作者の乾栄里子さんのお子さんが、ひらがなを覚え始めたときのエピソードがヒントになったというこの作品。乾さんご自身が新しい言語を学んだときの経験と合わせて、エッセイをつづっていただきました。

名前が書けた!

乾栄里子

大学を卒業後、インドに留学しました。ばたばたと決まった留学だったこともあり、ほとんど情報のないまま現地に行くことになりました。着いてみると砂漠の中にぽつんとある全寮制の学校に留学生は私一人しかおらず、寮や売店では英語があまり役に立ちませんでした。ヒンディー語が分からなくてはシャワーの順番もおかず選びもままなりません。何より友だちと話せなくては楽しくないので、ヒンディー語の勉強を始めました。デーヴァナーガリー文字というくねくねしたおもしろい文字をひとつひとつ覚え、まず初めに「エリコ イヌイ」と書けたときは嬉しくて「書けた!」と、友だちに見せてまわり「えらいねえ」「きれいに書けたねえ」と、褒めてもらいました。いくつになっても褒められれば嬉しいものです。そして、文字がわかると生活が飛躍的に楽しくなります。売店に「チャッパル」「ニーンブー」ちゃんと読めます。ただ単語を知らなければ残念ながら意味はわかりません。今ではもう、すっかり忘れてしまったヒンディー語ですが、そのときの楽しさや嬉しさだけははっきり覚えています。

時がたち、息子が字を覚え始めました。ひらがなというくねくねしたユニークな文字をひとつひとつ覚えるのですから本当にすごいことです。だいぶ読めるようになったころ、いっしょに歩いていた息子が「こ……さ…に」などと不思議な言葉を喋りはじめました。なんだろう? と、思って見ていると止まっている車のナンバープレートのひらがなを読んでいるのです。なるほど、ちょうど子どもの見やすい位置に「こ」とか「さ」とか書いてあります。その後も、お店の看板や貼り紙などのひらがなを読む日々が続きました。「お好み焼き」は「おみき」、「お持ち帰り」は「おちり」など、読めても意味がわからないことが多いのですが、自分の知っている言葉があると「やきいもだ!」と、嬉しそうに報告してくれます。「あそこ、すき!」と指さした先に「すき家」があったときは「ほんとだ、すきだね」と、答えながらおかしいやらかわいいやら。楽しい思い出です。

読むのはできても書くのは簡単ではありません。「く、し、つ」などは書きやすいですが、「あ、ぬ、ね」などは複雑すぎます。それでも、お友だちに手紙をもらって返事を書きたい息子は、一生懸命練習して自分の名前が書けるようになりました。嬉しくてたまらなくて、自分の名前の中で書くのが一番難しかった「む」の字を家のあちこちに書いていました。しばらく経ってから、こんなところに! と、意外なところに「む」を発見することもありました。

そんな字が読める楽しさや、名前を書けたときの嬉しさや誇らしさを思い出しながら『わにおの わのじは どうかくの?』を書きました。さるのすけとわにお、それぞれが楽しんでひらがなを探したように、子どもたちが自分のペースでひらがなを楽しんでくれたら嬉しく思います。



いぬいえりこ●1964年東京都生まれ。東京造形大学デザイン科卒業後、インドへ留学。バナスタリ大学でテキスタイルを学ぶ。絵本に「バルバルさん」シリーズ『ヴィンセントさんのしごと』(ともに福音館書店)『さるさるおさる こんにちは』(文溪堂)『ワンワンバウワウ』(講談社)『かぼちゃぞろぞろ』(ひさかたチャイルド)『くまくんこぐまくんのおいもほり』(文溪堂)『たねちゃん』(金の星社)など多数。東京都在住。

2026.03.04

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