第4回 細胞の記憶

初めてのお気に入り絵本、覚えていますか? といっても、自分が赤ちゃんのときのファーストブックなんて、思い出せませんよね。大学の教室で聞いたら、ほとんどが3歳以降の記憶。日本一読まれてきたはずの『いない いない ばあ』だって、赤ちゃんの頃に読んだことを思い出せる人は、まずいません。
私も、そうでした。でも親になり、娘にある絵本を読むときだけは、自分の体が妙に反応することに気づきました。『うさこちゃんとうみ』です。頰の辺りが、自然にふくふく、にまにましてしまうのです。体内でソーダの泡が弾けるような、くすぐったい感覚も。不思議に思いながら、やり過ごしていました。
十数年後、ディック・ブルーナに関する講演依頼を機に、あらためて日本で出版されていた全作品を読み返し、やはり『うさこちゃんとうみ』は特別だと再確認しました。実家の母に電話で取材してみたところ、母が朝日新聞で「子どもがはじめてであう絵本」(当時はこういうシリーズ名)の広告をみつけ、1歳だった私のためにすぐ8冊を注文したとのこと。どの絵本も読んでやるとよく聞いたが、一冊持っておいでと言うと、よちよち本棚へ歩き、必ず『うさこちゃんとうみ』を抱えてきていたことを教えてくれました。
(やっぱり!)合点がいきました。そして、うれしくなりました。だって大人の私がいま読み返しても、本当にすばらしい絵本ですもの。
海に行く前、父さんのふわふわさんと娘のうさこちゃんのやりとりからして、いいんです。「きょうは さきゅうや かいのある おおきな うみに いくんだよ」と親の行動を示した上で「いきたいひと だあれ?」と子どもの自主性を促す呼びかけ。「あたし あたしが いくわ!」と応える、うさこちゃんのきっぱりした欲求。それから父さんの手押し車に乗ってらくちんで揺られながら、大きな砂丘を目にする臨場感……。
「うさこちゃん」といえばミッフィーで、キャラクター性が強い印象がありますが、この本では、意外にも主人公のアップは12枚の絵のうち3枚だけ。小さく顔が出るページを入れても、6ヵ所だけ。他の絵は、うさこちゃんの目に映る光景が描かれているのです。こうしたページ構成の満ち引きが、幼い人たちを物語に引き込み、絵本の世界を体験させてくれるのでしょう。
私が特に好きな場面は、ふたつ。まず表紙絵にもなっている水泳パンツ姿のうさこちゃん。「おまえ ひとりで はけたのかい?」と驚く父さんに向けた得意顔がたまりません(本当にニクい父さんです)。もうひとつは、貝を拾う場面。普通なら、貝をバケツに入れるうさこちゃんを描写しそうですが、ページをめくると、黄色い背景に散らばった「いろや かたちも さまざまな」貝が、目に飛び込んできます。うさこちゃんのうっとりした視界を共有でき、何百回でもめくるたびに、ときめきを味わえます。
耳は母の声に預け、心地よい訳語のリズムと物語を楽しみながら、美しく温かいデザインを感じられたことは、幸せでした。頭では覚えていなくても、赤ちゃんの場合、どうやら幸せの記憶は細胞レベルで刻まれるらしい……ということは、たぶんこのベタ惚れがダダ漏れの拙文にもあらわれているでしょう。
●紹介した本
『いない いない ばあ』松谷みよ子 文 瀬川康男 画(童心社)
『うさこちゃんとうみ』ディック・ブルーナ ぶん/え いしい ももこ やく(福音館書店)
●プロフィール
広松由希子(ひろまつ ゆきこ)
編集者、赤ちゃん文庫主宰、ちひろ美術館学芸部長などを経て、現在フリーで絵本の文、評論、翻訳、展示企画などを手がける。国内外の絵本コンペの審査員を歴任。著書に『日本の絵本 100年100人100冊』(玉川大学出版部)、絵本の文に『かえりみち とっとこ』(岩崎書店)など。
2026.06.02




