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ぐりとぐら
こどものとも 1963年12月号
お料理することと食べることが何より好きな野ねずみのぐりとぐらは、森で大きな卵を見つけました。目玉焼きにしようか卵焼きにしようか考えたすえ、カステラを作ることにしたぐりとぐらは、卵があまり大きくて運べないので、フライパンをもってきて料理することにしました。においにつられて森じゅうの動物たちも集まってきて……。子どもたちに圧倒的な人気のぐりとぐらの登場です。
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読んであげるなら
5・6才から
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自分で読むなら
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作品についてもっと知る
「ぐりとぐら」のこと 中川李枝子(児童文学者)
昭和三十一年、保母学院を卒業した時の私ときたら、まさに人生の登り坂のいちばん良い所に立っていたようです。
「ジェーン・アダムスの生涯」(ジャッドソン作・村岡花子訳・岩波少年文庫)を読んだのがきっかけで選んだ社会福祉の道とはいえ、二年間の勉強と実習はどれも私に向いたことばかりで、保母ほど自分の能力を発揮できる仕事は他にあるまいと張り切っていました。
ですから自信満々、数ある就職口の中から、「求む 主任保母 無認可みどり保育園」を選んだのでした。
駒沢グラウンド(現在の駒沢オリンピック公園の前身)の片隅にあったみどり保育園は、実習ではおよそお目にかかれないような珍妙なバラックで、水道もありません。私は一目見た瞬間、こういう所こそ腕のふるいようがあるのだと、勇み立ちました。
保育園の周囲は見渡す限り広々としたみどりの原っぱです。保育園は窪地にあって、外から見ると木々におおわれ、見過ごしてしまいそうでした。
余り目立たないということも万事好都合、人からとやかくいわれる心配はないでしょう。自由に自分の思う通りの保育ができると、私はますます気をよくしました。
園児は四、五、六才児あわせて四十名ほどだったと思います。保母は、私を入れて二名。
はるのはるこ先生は園の経営者ですから園長、そして私こと、なつのなつこ先生は「主任」というわけです。
「だって、主任さんを求む、とでも書かなきゃ、こんな所へ誰も来てくれないでしょ。それに、実際、主任なんですもの」と、はるのはるこ先生はいい、私は約束通り、保育に関しての主導権を持たされました。
さて、この保育園がどういういきさつで出来たかといえば、駒沢グラウンドが地域の子どもたちの格好のあそび場、たまり場で、地元の婦人会が「青空保育」を企画したのが発端だったそうです。
近所に幼稚園などない折りから青空保育園は大盛況、東京都払い下げの古材を使って雨、露をしのぐバラックを建てるまでにこぎつけたのでした。
ですから、子どもたちの大半は、とくに保育に欠けているわけではなく、「せっかく、保育園があるんだから」ぐらいの、いたってのんきな気分でやって来るらしいのです。
ほんとうは原っぱで一日あそび暮らすほうが面白いのだけれど、友だちが保育園へ行ってしまうので仕方なしに自分も、という子どももいました。
女の子たちは歌ったりおどったり、折り紙や工作、木の下にゴザをしいてのママゴトなどが大好きで、毎日たのしみに通って来ます。でも、男の子たちは、なかなかそうはいきません。グラウンドじゅうが彼等の領分で、自由の天地なのです。あそび仲間の団結も強く、すきあらば保育園なんてサボってしまえとチャンスをねらっていました。
親のほうでは、保育園へ行って、ちょっとは利口になってくるだろうと期待をしているのに、さにあらず、当人たちは一日外であそびほうけ、お弁当をたべ、何くわぬ顔をして帰って来ます。保育園の行き帰り「道草」するのは当たり前の彼等ですから、時間のズレは余程でない限り咎められません。
でも、ばれたら、それこそ大変。悪童どもはおかあさんからお尻がムラサキに腫れ上がるほど叩かれ、翌日は保護者同伴、神妙な顔で保育園へやって来るのでした。
何はともあれ、子どもたちがエスケープするなんて保育園にとってまったく不名誉この上ありません。毎朝、私は窪地のバラックの窓から、ちょうど目の高さの所にある通り道を見張り、生い茂った草のかげを、頭かくして尻かくさず、かがんで走りぬけようとする子どもがいると、大声で呼びもどしました。
主任保母の第一の重要な仕事は、園児が一人も休まず、毎日保育園へ来るようにすること、だったのです。
そのために、まず、保育園はたのしい所でなくてはなりなせん。原っぱを自由自在にとびまわる以上の、保育園にしかない「いいこと」を持つべきです。
子どもたちは、紙芝居がとても好きでした。紙芝居となると、何をやっていてもとんで来て静かに座り、目をかがやかせるのです。
そして終わると、きまって「なあんだ、十二枚か」と拍子ぬけの体。たまに「十六枚」のをすると、ややごきげん。
そこで私は、十二枚以上の紙芝居を作ろうと思い立ちました。何か紙芝居むきの本はないかとさがしていると、はるの先生が岩波こどもの本の一冊、ヘレン・バンナーマンの「ちびくろさんぼ」を見つけて来てくれました。「こんな面白い本、見たことないわ」といって。
私は、あの絵と文をそっくりそのまま画用紙へうつしました。なんと、二十四枚の紙芝居が完成。子どもたちを一人残らず興奮の渦へ巻きこみました! それも、二十四枚が大受けしたのではなく、「ちびくろさんぼ」そのものが子どもたちの心をとらえたのです。
もちろん、出席率は100パーセントとなりました。朝来ると、「今日は何回やってくれるの?」が挨拶がわりで、帰る時は「あしたもやってね」と念を押します。
そればかりか、「ちびくろさんぼ」は生活のあらゆる場へ顔を出し、子ども同士の「対話」を活発にし、グループあそびを盛りあげてくれました。よろこびを共にしたことで、彼等の中に連帯感が生まれ、育って行くのです。
これを機会に、私は幼児のよろこぶ、ほんとうに面白くてたのしい絵本やお話を、鵜の目鷹の目でさがすようになりました。読んでもらうのがキライな子は、それこそ、一人もいませんでした。
この、ちびくろさんぼ熱には、はるの先生も感染、皆にホットケーキを御馳走しないではいられなくなったのでしょう。
とうとう、家から材料一切、フライパンと電気コンロを運んで来て、子どもたちの前でホットケーキをやいたのです。
デパートの食堂のように、形の良い二枚重ねとはいきませんでしたが、いい匂いがして、ふっくらとやけました。
一枚を四人ずつで分けあった子どもたちは、おいしいねえ―、先生は上手ね―と大よろこび。
「ぼく、ホットケーキをたべたんだ」と、一九六枚たべたちびくろさんぼに負けないぐらい、得意でした。
この、しあわせそのもの、といった子どもたちの姿に、私は自分でもおどろくほど、強い感動をおぼえました。一生消えないでしょう。
「ぐりとぐら」について語るようにいわれると、どうしても話はここまで戻ってしまいます。
昭和三十一年、保母学院を卒業した時の私ときたら、まさに人生の登り坂のいちばん良い所に立っていたようです。
「ジェーン・アダムスの生涯」(ジャッドソン作・村岡花子訳・岩波少年文庫)を読んだのがきっかけで選んだ社会福祉の道とはいえ、二年間の勉強と実習はどれも私に向いたことばかりで、保母ほど自分の能力を発揮できる仕事は他にあるまいと張り切っていました。
ですから自信満々、数ある就職口の中から、「求む 主任保母 無認可みどり保育園」を選んだのでした。
駒沢グラウンド(現在の駒沢オリンピック公園の前身)の片隅にあったみどり保育園は、実習ではおよそお目にかかれないような珍妙なバラックで、水道もありません。私は一目見た瞬間、こういう所こそ腕のふるいようがあるのだと、勇み立ちました。
保育園の周囲は見渡す限り広々としたみどりの原っぱです。保育園は窪地にあって、外から見ると木々におおわれ、見過ごしてしまいそうでした。
余り目立たないということも万事好都合、人からとやかくいわれる心配はないでしょう。自由に自分の思う通りの保育ができると、私はますます気をよくしました。
園児は四、五、六才児あわせて四十名ほどだったと思います。保母は、私を入れて二名。
はるのはるこ先生は園の経営者ですから園長、そして私こと、なつのなつこ先生は「主任」というわけです。
「だって、主任さんを求む、とでも書かなきゃ、こんな所へ誰も来てくれないでしょ。それに、実際、主任なんですもの」と、はるのはるこ先生はいい、私は約束通り、保育に関しての主導権を持たされました。
さて、この保育園がどういういきさつで出来たかといえば、駒沢グラウンドが地域の子どもたちの格好のあそび場、たまり場で、地元の婦人会が「青空保育」を企画したのが発端だったそうです。
近所に幼稚園などない折りから青空保育園は大盛況、東京都払い下げの古材を使って雨、露をしのぐバラックを建てるまでにこぎつけたのでした。
ですから、子どもたちの大半は、とくに保育に欠けているわけではなく、「せっかく、保育園があるんだから」ぐらいの、いたってのんきな気分でやって来るらしいのです。
ほんとうは原っぱで一日あそび暮らすほうが面白いのだけれど、友だちが保育園へ行ってしまうので仕方なしに自分も、という子どももいました。
女の子たちは歌ったりおどったり、折り紙や工作、木の下にゴザをしいてのママゴトなどが大好きで、毎日たのしみに通って来ます。でも、男の子たちは、なかなかそうはいきません。グラウンドじゅうが彼等の領分で、自由の天地なのです。あそび仲間の団結も強く、すきあらば保育園なんてサボってしまえとチャンスをねらっていました。
親のほうでは、保育園へ行って、ちょっとは利口になってくるだろうと期待をしているのに、さにあらず、当人たちは一日外であそびほうけ、お弁当をたべ、何くわぬ顔をして帰って来ます。保育園の行き帰り「道草」するのは当たり前の彼等ですから、時間のズレは余程でない限り咎められません。
でも、ばれたら、それこそ大変。悪童どもはおかあさんからお尻がムラサキに腫れ上がるほど叩かれ、翌日は保護者同伴、神妙な顔で保育園へやって来るのでした。
何はともあれ、子どもたちがエスケープするなんて保育園にとってまったく不名誉この上ありません。毎朝、私は窪地のバラックの窓から、ちょうど目の高さの所にある通り道を見張り、生い茂った草のかげを、頭かくして尻かくさず、かがんで走りぬけようとする子どもがいると、大声で呼びもどしました。
主任保母の第一の重要な仕事は、園児が一人も休まず、毎日保育園へ来るようにすること、だったのです。
そのために、まず、保育園はたのしい所でなくてはなりなせん。原っぱを自由自在にとびまわる以上の、保育園にしかない「いいこと」を持つべきです。
子どもたちは、紙芝居がとても好きでした。紙芝居となると、何をやっていてもとんで来て静かに座り、目をかがやかせるのです。
そして終わると、きまって「なあんだ、十二枚か」と拍子ぬけの体。たまに「十六枚」のをすると、ややごきげん。
そこで私は、十二枚以上の紙芝居を作ろうと思い立ちました。何か紙芝居むきの本はないかとさがしていると、はるの先生が岩波こどもの本の一冊、ヘレン・バンナーマンの「ちびくろさんぼ」を見つけて来てくれました。「こんな面白い本、見たことないわ」といって。
私は、あの絵と文をそっくりそのまま画用紙へうつしました。なんと、二十四枚の紙芝居が完成。子どもたちを一人残らず興奮の渦へ巻きこみました! それも、二十四枚が大受けしたのではなく、「ちびくろさんぼ」そのものが子どもたちの心をとらえたのです。
もちろん、出席率は100パーセントとなりました。朝来ると、「今日は何回やってくれるの?」が挨拶がわりで、帰る時は「あしたもやってね」と念を押します。
そればかりか、「ちびくろさんぼ」は生活のあらゆる場へ顔を出し、子ども同士の「対話」を活発にし、グループあそびを盛りあげてくれました。よろこびを共にしたことで、彼等の中に連帯感が生まれ、育って行くのです。
これを機会に、私は幼児のよろこぶ、ほんとうに面白くてたのしい絵本やお話を、鵜の目鷹の目でさがすようになりました。読んでもらうのがキライな子は、それこそ、一人もいませんでした。
この、ちびくろさんぼ熱には、はるの先生も感染、皆にホットケーキを御馳走しないではいられなくなったのでしょう。
とうとう、家から材料一切、フライパンと電気コンロを運んで来て、子どもたちの前でホットケーキをやいたのです。
デパートの食堂のように、形の良い二枚重ねとはいきませんでしたが、いい匂いがして、ふっくらとやけました。
一枚を四人ずつで分けあった子どもたちは、おいしいねえ―、先生は上手ね―と大よろこび。
「ぼく、ホットケーキをたべたんだ」と、一九六枚たべたちびくろさんぼに負けないぐらい、得意でした。
この、しあわせそのもの、といった子どもたちの姿に、私は自分でもおどろくほど、強い感動をおぼえました。一生消えないでしょう。
「ぐりとぐら」について語るようにいわれると、どうしても話はここまで戻ってしまいます。
とじる
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