あのねエッセイ

特別エッセイ|糸井重里さん「大好きな「とるにたらない」がいっぱいだ。」〜『おじいちゃんの小さかったとき』刊行によせて

1950年代から1960年代の子どもたちの暮らしを紹介した科学絵本『おじいちゃんの小さかったとき』。その刊行を記念して、ウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」を主宰する糸井重里さんに、エッセイを寄せていただきました。「とるにたらない」はずの記憶の豊かさ、温かさを思い出させてくれるエッセイを、ぜひ『おじいちゃんの小さかったとき』、また同時刊行の作品『おばあちゃんの小さかったとき』ともあわせて、じっくりとお楽しみください。

大好きな「とるにたらない」がいっぱいだ。

糸井重里


「おじいちゃんの小さかったとき」のことを、おじいちゃんの年齢のぼくは、なつかしいなぁと思いながら、まずは読んだ。「そうそう」という共感と、「よくこんなことおぼえているものだなぁ」と感心する気持ちがあった。 
そして、ふと思うことになる。ここに描かれている、いまぼくが思い出と呼んでいた「じじつ」の数々は、この本に描かれてなかったら、どこに行ってしまったことだろうか。
空き地にマンションが建って、空き地がなくなってしまうように、近所のちっちゃな川が地下に潜って水の流れが見えなくなってしまうように、あのころの道具や遊びや、いたずらやお説教は、もうとっくに消えていたんだなぁと、あらためて思う。この本で「あった」ことを思い出したせいで、無くなっていたことまで思い出すことになった。
まとめて言ったら「とるにたらない」ものごとである。その当時も、なくてもかまわないと思われていたようなもの、そして忘れてもいいやと思われていたようなことが、「おいおい、ほんとに無くなってもよかったのかい?」と、本のなかから声をかけてくる。もちろん、「忘れちゃってもいいさ」と言う人がいるなら、その声はそのままいさぎよく消え去るにちがいない。でも、「そうだなぁ、近くのこどもに話してやろうかな」と思う人がいたら、その声の主はうれしそうに「じゃ、もっと見て見て」と笑顔を見せることだろうね。
作者たちは、「とるにたらない」ものごとの、いちばん快適な居場所を心得ている。無くてはならないとか、これこそが人間の文化の営みのとか、言いもしない。どういえばいいのだろう、人のだれも見てない場所に立っている木が、だまって鳥に巣をつくらせていたり、日陰をつくっていたり、雨をしのぐ屋根になってくれたりするように、この「おじいちゃんの記憶」は、呼ばれたときにだけ、人の思い出と遊びはじめるつもりなのだろうな。
半年ほど前に、ぼくは現実に「おじいちゃん」になったので、目の前の「まご」になにをプレゼントしてやろうかということばかり考えている。おもちゃや洋服だけでなく、なにかおいしいおやつでもなく、なにをあげようと考えるときに、「とるにたらない」ものや、「とるにたらない」ことや、「とるにたらない」話を、たくさんあげたいなぁと思った。ほんとうに「とるにたらない」ものごとが、「おじいちゃんのほとんどぜんぶなんだよ」と言っていっしょに笑いたいと思った。だって、おそらく、ぼくはほんとうに「とるにたらないもの」でできているんだからね。

いまは赤ん坊の「まご」も、おそらく、じぶんが「おばあちゃん」になったころに、そうしようと思うんだろうな。この本、そのときまで、なくさないでいられるかな。



糸井重里(いとい・しげさと)
1948年生まれ。群馬県出身。ほぼ日刊イトイ新聞を主宰。コピーライターとして数々の広告を手がける他、作詞家、ゲーム制作など多岐にわたり活動。1998年に「ほぼ日刊イトイ新聞」を創刊。以降、「ほぼ日」での活動に全力を注ぐ。

2019.09.13

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