イベントレポート

『アリになった数学者』刊行記念対談 「からだをとおして考える 数とことば」@教文館(前編)

福音館の社員が参加したイベントのご報告をするこちらのコーナー。今回は、10月18日に行われた、絵本『アリになった数学者』の刊行記念対談の様子をお届します! 作者の森田真生さんと、『どもる体』(医学書院)の著者・伊藤亜紗さんをお迎えして、「からだをとおして考える 数とことば」と題したトークイベントを行いました。

『アリになった数学者』刊行記念対談 「からだをとおして考える 数とことば」

森田真生さん×伊藤亜紗さんトークイベント


対談開始前、縦長の会場の一番奥にある一段高くなったトークスペースと、その前に並べられた椅子を見た森田さん。お客さんとの距離を近づけて、場の一体感を出すために、会場を横長に使うことを提案されました。トークスペースの段もとりはらって、どの席からも森田さんと伊藤さんが近く感じられる会場ができあがり! 満員になった客席を前に、和やかな雰囲気で対談が始まりました。


「アリ」をテーマに「1」を語る

「1」についての絵本を、という編集者の依頼から始まった『アリになった数学者』。物理の研究をしている方から「アリは水滴に乗っても、表面張力で割れない」と聞き興味を持ったのが、「アリ」をテーマにしたきっかけだったそう。

森田:人間は目で見て、水滴を「一粒」と数えられるけれど、持ったら潰れてしまう。違う体だと水滴に触れられるってことに興味を持って、「アリ 水滴」で検索したら、水滴を持っているアリの写真がいっぱい出てきたんです。水滴を持って「これが1だ」とわかったアリが、それを仲間に伝えようとするんだけど、仲間は「1」という概念をわかってくれない、というのを思いついた時に、これでなんとか絵本が書けるかもしれないって思ったんです。
それで和歌山県の紀見村っていう岡潔(※)が住んでいたところに篭って、夜真っ暗な中で部屋の何箇所かにパンを置いて、手足を使わないでパンに近づいて食べるっていうのをやりました。人間の「数」って、目で見たり手で持ち上げたりできることで形づくられているから、それがなかった時にどんな感じがするんだろう、と思って。アリにとっての「1」がどんなものなのか、自分なりに全身を使って想像しながら書きました。

伊藤:私はもともと理系で、数学はすごくできたのに、好きになるところまではいかなかった。それはなぜかなと考えながら森田さんの本を読みました。数学は好きではないけど「ハイになる」って思っていたんですよね。数学をやっているときは、考えているんだけど考えてないという感じがあります。頭で考えているというよりは、紙とペンが考えて、自分の脳内では達成できないことがなぜかできてしまう、という感覚が気持ちよくて。ただ、森田さんの言う「外部の思考が身体化する」というところまで、私は行けなかった。大学に入った時に、いったん外に出た、完全に抽象的な思考を自分の中にインストールするっていうことにすごく抵抗を感じて、それでもう理系はダメだなって思ったんですよね。


文脈を超えていく、人間の身体

伊藤:子どもが小学校に入ってから、「わからない」っていう言葉を発するようになったんです。幼稚園の時は「わからない」っていう言葉はなかったのに。

森田:何か質問すると、必ず答えますよね。説明になっていないのに、何か説明してきますね。

伊藤:初めて「わからない」って言われた時、すごくショックだったんですよね。それが同時に「どこかに正解がある」っていうのとセットの「わからない」だったから。「わからないから教えて」っていう。学校教育って基本そうじゃないですか。「2+3はなんですか?」って、先生分かってるじゃんみたいなことを質問する(笑)。

森田:先生が「正解」という形で知識を持っていて、それは生徒に「伝える」ことができる。そういう物語を演じているのが教室という空間ですね。

伊藤:そうなんですよ。それがすごく残念で、どんどん枠にはまっていくような。

森田:最近、「規則」のことをいろいろ考えていて。例えば、数学をするときは、破ることができるルールにあえて従うっていうことが大切ですが、この「規則に従う」というのは、機械の方が圧倒的に得意なんです。あるルールに従うためには、規則に従う仕方を規定している「文脈」が必要で、機械はひとつの文脈に固定されているから。一方、人間の身体の特徴というのは、文脈を行ったり来たりできるということ。身体は文脈に参加することで、規則の適用の仕方を柔軟に切り替えていくことができる。

伊藤:現実に生きてる限りは、規則も変わり続けるじゃないですか。ルールを運用することとそれを遵守することというのは、あまり区別できないと思う。ただ、私はそこに興味をもっていて、それが体だからこそのごちゃっとしたおもしろさだなと。メタとベタが区別できないようなのが、生々しくて、そこに興味があるんです。


何かに変身することで、「自分」がわかる

伊藤:たとえば、全く条件が異なる生命体が出会った時に、ルールを作る探り合いが始まるわけじゃないですか。アリと人間が初めて出会った時に、どういうルールをつくるのかな。今回のお話の中でそれが一番気になった。

森田:ものを「わかる」ことは「変身」することだって伊藤さんは書かれてましたけど、その時にわかるのって、変身してなった対象では必ずしもなくて、むしろ変身することによって、自分がはじめから何者だったのかがわかる。今回の「アリになる」というのもそういう感覚です。1という言葉の意味がわかってしまう、人間の思い込みみたいなものを揺さぶる手がかりとしてのアリの世界。
「わかる」っていうことは、本質を把握することだと思ってしまいがちなんですが、僕はむしろ、「ひとつの本質がある」と思い込んでしまっている、その思い込みをほぐしていくことの方に関心があります。

伊藤:結局そうですよね。何かを伝える時も、外部から入ることってなくて、その人の中にある要素のマッピングが書き換わるみたいな感じ。


個々のものを「同じ」だと見なすこと

伊藤:今回の絵本でいうと、1を理解するためには2とか3が必要なんですかね。

森田:そう思います。

伊藤:それはどうして? 比較の中で1が見えてくるという感じ?

森田:1しかなかったら1を名付ける必要がないと思うんですよね。2と3が生じるのと同時に「1」を名づける意味が出てくる。

伊藤:でも現実には同じものってこの世界にないわけじゃないですか。それを同じだとみなす作業は、実はかなり乱暴ですよね。この人とあの人が同じ「人間」だ、とか。大学生の時にバイトで小学生に教えてる時に、それがわからない子がいて感動したんですよね。りんごが13個あって、それを3個ずつダンボールに入れたら何個必要でしょうみたいな問題で、ダンボールどのくらいの大きさかな、とか3個目入るかな、とかすごいリアルに考えちゃって、数の問題にできない子がいたんですね。そういう世界があるのかってその時に感動して。でも、どういう風に言えば教えられたのかなって思ったりもするんです。

森田:それって教わってできるようになることなんですかね。うちの息子も、ある時からリンゴを数えられるようになりました。「このリンゴとこのリンゴは違って見えるかもしれないけど、同じ〈リンゴ〉なんだよ」とか説明していないのに、ある時からリンゴをリンゴとして数えられるようになった。

伊藤:うちの子は色彩を覚えるのがすごく遅くて。電車が好きだったんですけど、バナナを指して、「これなに色?」っていうと「総武線!」て言ってたんです(笑)。彼の中では、総武線が抽象概念化していて、電車レイヤーで全てを見ていた。走る時も、手を蒸気機関車みたいにしていたり。それも一種の変身で、自分を電車化するというような、ある種の強引な重ね合わせが、わかるということのきっかけにはなったりしてたんでしょうけどね。
 

(後編へ)

2018.11.08

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