あな
こどものとも|1976年11月号
日曜日の朝、何もすることがなかったので、ひろしは穴を掘りはじめた。妹が「あたしにも掘らせて」といっても「だめ」。友だちが「何にするんだい」と聞いたら、「さあね」。穴は次第に深くなり、穴の底からいもむしがはいだしてきた。穴の底に座りこんで「これは僕の穴だ」とひろしは思う……。横長の本を縦に開く斬新なデザイン。谷川俊太郎、和田誠とも「こどものとも」初登場です。
- 読んであげるなら
5・6才から - 自分で読むなら
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※上記価格は当該号刊行当時の価格です。
こどものとも|1976年11月号
日曜日の朝、何もすることがなかったので、ひろしは穴を掘りはじめた。妹が「あたしにも掘らせて」といっても「だめ」。友だちが「何にするんだい」と聞いたら、「さあね」。穴は次第に深くなり、穴の底からいもむしがはいだしてきた。穴の底に座りこんで「これは僕の穴だ」とひろしは思う……。横長の本を縦に開く斬新なデザイン。谷川俊太郎、和田誠とも「こどものとも」初登場です。
※上記価格は当該号刊行当時の価格です。
「あな」についての五つの質問
今月号の「子どものとも」は、谷川俊太郎さんの「あな」を掘る絵本ですが、この絵本をつくられた動機や意図などを聞いてみました。 編集部
――さて、第一場面は「ひろしはなにもすることがなかったので あなを ほりはじめた」という文章ではじまりますが、ここからお聞きします。というのは、子どものくせに、「なにもすることがなかった」という、まあ、子どもにとっては、比較的わかりにくいことばがあるということ。もしこれが、「ひろしは、あなを ほりはじめた」というのであれば、わかりやすいという点だけを考えれば、非常にわかりやすい。そこに、このことばを入れたことについてお聞かせください。
●ぼくの経験では「なにもすることがない」って状態はあるんだなあ。子どもってわりとあきっぽいでしょ、「たいくつだよォ」とか、「なにしていいかわかんない」なんていいながら、ごろごろしてるってことがある。母親は「おそとで遊びなさい」とか、「お絵かきしたら」なんていうわけだけど、子どものほうは「つまんないもん」てな工合(ぐあい)にしばらく所在なさそうにしてるんだな。
でもそれもほんのしばらくの間だけで、またすぐなんか面白いことをみつけ出して、子どもは遊び始める。退屈も活気の一表現みたいなところがあってね、まあぼくはそんな状態を思い描いて「なにもすることがなかったので」って書いたわけ。もしこのことばなしで、「あなを ほりはじめた」というふうに始めると、なんか穴を掘る目的がそのことばの裏にかくされているみたいに感じるでしょう? そうなるとこの話全体が成り立たなくなっちゃうんだ。
理由も目的も、自分じゃわからずになんとなく何かを始めるってこと、おとなにもあるんじゃないでしょうか? そういう行為を人間の深層心理とむすびつけて考えることもできるらしいけれど、そこまでむずかしくいわないでも、ひろし自身が(そして作者も)はっきりとことばで限定することのできない、或る心の動きがあることはたしかだと思うな。それをね、さびしいからとか、かくれたいからとか、作者のほうでは割り切りたくないんだ。そういってしまうと、かえって不正確になるような気がする。
――次に、穴を掘りはじめる。実際に、自分の庭にこんな大きな穴を掘られたら、本当は困っちゃうんですが、それはともかくとして、穴を掘っている最中に登場してくる母親、妹、友人、父親のセリフがありますね。この人たちは、あとで、また一回ずつ登場してきて、何かいうんですが、それぞれのセリフが、とても簡単だけどおもしろい。このセリフについても何か考えることがあったわけですか……。例えば、母親のセリフがありますけれど、この母親が、わりとつまんないことを聞くわけですよね。「なにしてるの?」なんていうのは、ひろしがやってることを見ればわかるわけで、わざわざ聞かなくてもいいんですよね。だから、それに対するひろしの答えが、おもしろいんですけど。それを二度も、母親はやってるわけ。それにくらべると、父親のセリフというのは、どっちかというと、ひろしの味方みたいな、得なセリフをいってるわけで、読者である母親からみると、ちょっとくやしい、なんて気もするんではないかしら、と思ったりもするんですけれども。
●まあ、自分の家の庭に掘ったのかどうかははっきりしてないんだよ。もしかすると近くの空地かもしれないんだけど。それはともかくとして、母親っていってもいろんな母親がいるだろうけど、うちの女房なんか見てると、時々わかりきったことを子どもにたずねて、うるさがられたりしてる。父親は(というと、ぼくのことになるようだけど)逆に、子どものすることはみんな理解できてるみたいなしたり顔で、子どもの側に立ったようなことをいって、それはそれで子どもに馬鹿にされたりする。
この絵本の母親父親は、だから両方とも少々皮肉に戯画化してあるんです。父親のほうをよく書いたつもりはないんだよ。「まあね」っていう、ひろしのなま返事でそれはわかるんじゃないかな。父親だって、ひろしの気持ちを理解してるわけじゃない。少々大げさにいえば、穴を掘るってことで、しかもはっきりした理由も目的もなくそうすることで、ひろしは他の人たちから孤立してるんです。作者自身がこういうことまでいわなきゃいけないのかどうか疑問だけど、この本の主題はいってみりゃ、人間の孤独ってことだろうと思うんだな。ひろしは誰にも手伝ってほしくないし、穴を何かの目的に使うのもいやなんだ。しかも何故(なぜ)そうなのか自分でも説明できない。
もうひとつつけ加えると、母親との二度のやりとりは、マザー・グースにある、例の「ばあさんがひとり/おかのふもとにすんでいた/もしもどこかへいってないなら/いまでもそこにすんでいる」なんかに表現されてるいわゆる〈自明の理〉のおかしさを意識してるところもあるかもしれない。ここでは対話は実は成立してないんだ。
――次にイモ虫が登場するところ。絵を見ていると、イモ虫は少しずつ画面に出てきますので、見ているほうは、何かある、と思っていると、ひろしに会ったとたん、Uターンしちゃう。そしてひろしの穴掘りがやっと止まるわけですが、このイモ虫を登場させて、ひろしと対面させたことには、どんな意味あいをこめていらっしゃったのでしょうか。
●イモ虫はいってみれば、孤独なひろしがことばを媒介とせずに共感しあえたただひとりの(一匹の?)友だちなんでしょうね。おなじひとりぼっちの穴掘り仲間に出会うことで、ひろしは安心するんだね、カッコよくいうとカタルシスを感じたといってもいいかもしれない。汗みずくになって、「もっとほるんだ もっとふかく」って思ってるときのひろしは、何故か知らないけど、ちょっと意地になってるようなところがあるよね、ひろしにはきっと何かの不満みたいなものがあって、それが穴を掘るって行為に表現されてる。それがイモ虫に出会うことで、つきものがおちるみたいにおちちゃうんだな、きっと。
イモ虫がごく自然にやってることを、自分はずいぶん無理してやってる、そんな自分がばかばかしくなったのかもしれない。とにかくそこで、ひろしにとっての穴の意味が変わるんです。それまでは、掘るって行為に意味があったんだけど、そのあとは、掘った穴の中にいるってことが楽しくなってくるんだ。
――それから、ひろしは外に出て、「これは ぼくの あなだ」っていいますね。ここは、とてもよくわかります。でも、そのすぐあとで埋めちゃうでしょう? ちょっとびっくりしました。なんで埋めちゃうんでしょう。せっかく掘ったのに埋めなくたっていいのに。あしたまた穴にはいって遊べるかもしれないのに。「これは ぼくの あなだ」ということと、埋めてしまうことについてお話ししてください。
●くり返すようだけど、ひろしはおとしあなに使うのでも、ゴミすてにするのでもなく、穴を掘ったわけね。ひろしにとては、穴を掘ること自体が目的だったともいえる、そういう意識はひろしにはないんだけどね。何かに役立てようとして掘ったんじゃなくて、なんとなく掘り出したら掘るのが面白くなって、もっと掘りたくなって、わりあい深く掘れたら今度は穴の中にただ座ってるのも楽しくなったんだ。そこにはひろしのコンプレックスもこめられてるかもしれないけれど、そうやって、ひとと少々ちがうことをしたおかげで、ひろしは自分というものを確認できたって考えることもできるんじゃないかな。
穴を掘り、穴の中に座ることで、ひろしはひとときひとりぼっちの自分をたしかめ、それを楽しんだといえる、だからそれでひろしにとっての穴の効用はもう終ってるのさ。いつまでも穴の中に座りこんでるほど、ひろしは不健康じゃない。「これは ぼくの あなだ」っていうのは、初めは自分の能力に対する満足感だし、次には、穴が自分ひとりのものであって、それは誰にも渡せないものだし、渡したくないものだっていうことの確認なんだな。穴を埋めることで、ひろしは自分の孤独から社会へ帰ってくるわけだし、そうして自分のしたことに自分で決着をつけるんだ。せっかく掘ったのに、あっさり埋めちゃうってところに、ひろしの行為の純粋さがあるはずだと思うんだけど。
――最後になりますが、この絵本が今までの絵本と違うなと感じるのは、普通、主人公の子どもというのは、何かをするわけで、その何かをするというのが、たいてい他の友人たちといっしょに、外に向って何かをするという型が多かったと思うのです。それと違って、この絵本の主人公は、ひとりになりたい、たったひとりで内に向って何かをするという型になっています。このへんは谷川さんの幼児体験や、今のお気持ちなどともかかわっているのでしょうか。そのへんを。
●もちろんこんなささやかなストーリィひとつにも、ぼくのこれまでの全体験の背景があると思います。特にぼくはひとりっ子だったから、ひとり遊びが好きでしたしね。でも、それが特殊だとは思わないな。誰にでも、自分に似せて自分の穴を掘るってことはあると思う、そしてしばらくの間、ひとから離れてそこへかくれていたいって気持もね。おとなにそういう心理があるんなら、子どもにだって似たような心理はあるんじゃないかしら。
わかりにくいっておどかされたんで、自分で自分のつくったものを解説するなんて妙なことしちゃったけど、これはあくまで作者の主観的解釈のごく一部であってね、和田さんの絵の加わったこの絵本そのものは、作者の解釈以上の多義的なひろがりをもってると思うので、自由に読んでもらえるといいな。
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