床屋のこと 乾 栄里子
商店街や裏通りにある床屋を目にすると、その静かなたたずまいの中に秘められた職人魂のようなものを感じて、私はあれこれ想像してしまいます。
床屋の毎日は真剣勝負にちがいない。店の中ではたとえばこんな光景が……。
ある晴れた日の午後、ひとりの男(もちろん女でも、子どもでもいい)がふらりと店に入ってくる。はじめての客だ。店の中の空気がさっと緊張し、床屋の主人の眼に光がこもる。
「いらっしゃい、今日はどうしましょう」「おまかせします」客はみじかく答える。「はい、かしこまりました」主人の闘志が静かに燃える。よく手入れされたはさみを手にすると、黙って仕事にとりかかる。ていねいだが、意外に大胆にハサミを入れていく。
「ああ、そんなに切ってしまっては取り返しが…」「せめてそこだけは残して…」主人の思い切りのよさに客は少々困惑ぎみ。「お客さん、顔もあたっておきましょうか」腰の引けている客をよそに、主人はあくまで冷静である。
「さあ、おわりましたよ」主人は、静かにクロスを払い、客に手鏡をわたす。「あれ、これはこれでなかなかいいかも」後ろから横から何度もながめているうち、客の顔が満足そうに変わってくる。主人は勝利を確信し、客の立ち去った店内で、午睡の続きを楽しむのであった……。
ああ、床屋さんの仕事って、なんてかっこいいんだろう。私の中で大きくふくらむ尊敬の念。でも、行くのにはちょっと勇気がいる。もうちょっとやさしい床屋さんがいい……。こんなことを考えながら『バルバルさん』を書きました。