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跳び続ける 五味太郎
中学校のころ、ぼくは体操競技の選手であった。地方大会ではなんとか優勝を争うほどの実力の持ち主であって、その技はちょっとしたものであった。特に鉄棒は得意中の得意の種目であり大好きであったから、競技開始、鉄棒に跳びついたらもう、うれしさ一杯、楽しさ一杯で、危険も恐怖も知ったものではなく、審査員もどう採点していいのかわからないほどの大技の連続で、やっている当人も、ひょっとするとこのまま一生、鉄棒を中心にして回り続けてゆくことになるのかもしれないなとふと思うほどの充実感であった。
そして、その充実感がさらに充実し続けると、やや気分が変わってきて、回り続けるのはこのぼくではなく、ぼくの手が握っている鉄棒や、その鉄棒がワイヤーで張られている床や、その床が広がっている体育館や、その体育館が建っている市民公園や、その街や、地面や空の方が、それこそぼくを中心にして永遠に、ぐるぐると回り続けていくように思われてくるのだ。その気分は充実の充実、目眩く興奮の極致なのには違いないのだが、鉄棒を中心に己が回っている時よりは少し冷たく、少し静かで、少しさびしい。ぼくはその感覚を、お日様の孤独と名付けて愛した。熱はあるのだ。あふれるほど身は熱いのだ。しかし冷たく静かでさびしいのだ。けれど、宇宙は悠久、ひとは一瞬なのであって、回転運動は、手のひらの皮が破けるのと同時に我に返ることになっており、お日様はあえなくマットの上に沈むのである。もちろん、落日前の輝き、跳び越し開脚降りの大技で一応はきめてのことではあるが、降りてしまえばすべては終りであって、すべては止まるのである。それが辛いから、次は平行棒、そして跳馬、さらに、鞍馬、つり輪、床運動と続けてゆくよりないのだ。あの、冷たく静かでさびしい感覚のえも言われぬ魅力に憑かれて、ぼくは競技し続ける。とはいえそれはまた、熱く騒がしく気がかりな競争の実際もともなっていて、ミスが三ヵ所で八・七五、構成力が乏しくて九・○○、頭から落下して六・二五、こりゃ入賞もあぶない、予選で落ちるぞ、いやゆけるかも知れない…といったりきたりする。そんな混乱の中で、ぼくは時々、草むらを跳び続けてゆくバッタのことを想った。お日様の孤独を彼もまた、いや彼こそが感じ続けているに違いないと思った。
基本情報
- カテゴリ
- 月刊誌
- ページ数
- 24ページ
- サイズ
- 21×20cm
- 初版年月日
- 1984年10月01日
- シリーズ
- こどものとも年少版
- ISBN
- ー
- テーマ
- ー
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